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- Item戸部城跡(中部大学, 2025-05-27) 加地凉
- Item梅森北城跡(中部大学, 2025-05-21) 木村智哉梅森北城跡 由緒 此の城址(城の跡地)は天文癸巳(みずのとみ)二年西暦一五三三年三河の国、碧海郡佐々木の城主松平三蔵はこの地に城を築き居城とした。 この城は梅森北城と称され、東西に四十間(25.452m)、南北三十二間(58.176m)と古い記録に記されている。(梅森に伝わる『邑事細見禄』及び『尾張誌』などによる。)松平三蔵は深く真宗を信仰し天文戊戌(つちのえいぬ)7年(西暦1538年)三月、三蔵は菩提寺であった天台宗に属する桃延坊をこの地に移し宗を真宗に改め、号(呼び名)を眺景寺とし、次子の高照を剃髪させて、名を道西と改め本寺の住職とした。(眺景寺誌による。) 昭和5五七年二月吉日
- Item殉職記念碑(中部大学, 2025-07-03) 井上遥斗平田事件に関する石碑表は殉職記念碑と当時の県知事の名前が書かれている。裏は3段に分かれそれぞれ関係者の名前が書かれている、またたくさんの人の名前が彫られているがほとんどが石碑を建てた人達とその団体の名前だと思われる、そしてこの石碑自体が2mぐらいあったので多くの人の名前が刻まれている。また別の資料によれば当時権力を持っていた小幡豊治がこの事件について知り建てたとされている。
- Item戸部城跡(中部大学, 2025-05-03) 加地凉戸部新左衛門政直 (とべしんざえもん まさなお) は、戦国時代の名将・今川義元に仕えた忠臣である。 尾張国戸部の地に城を築き、その人柄は誠実かつ忠義に厚く、私心を持たず、常に主君のために尽くしていた。政直の忠誠心は家中に知れ渡っており、今川家の勢力を支える大きな力となっていた。当時、織田信長は天下に名を挙げ、京都に旗を掲げることを志していた。しかし、東海道に勢力を誇る今川氏は強大な国であり、政直のような忠義を擁していたことは、他国に対する大きな優位性であった。織田信長は政直の忠誠を恐れ、今川氏の結束を乱すために策略を巡らせた。信長は間者(スパイ)を送り込み、偽造した書状を用いて、政直が敵と内通しているかのように仕向けたのである。これにより、義元は長年信頼してきた政直を疑い、ついには偽りの証拠を信じて政直の殺害を命じた。政直の死後、長い年月が流れ、かつての城も跡形もなく煙のように消え去った。しかし、郷里の人々は政直の忠義を忘れず、その地に碑を建てることを決めた。こうして政直の忠誠と悲劇の物語は、石碑とともに永く後世に伝えられることとなったのである。
- Item戸部城跡短歌碑、梅森北城跡、殉職in平田橋(中部大学, 2025-05-05) 加地凉、木村智也、井上