梅森北城跡
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Date
2025-05-21
Authors
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Publisher
中部大学
Abstract
梅森北城跡
由緒 此の城址(城の跡地)は天文癸巳(みずのとみ)二年西暦一五三三年三河の国、碧海郡佐々木の城主松平三蔵はこの地に城を築き居城とした。
この城は梅森北城と称され、東西に四十間(25.452m)、南北三十二間(58.176m)と古い記録に記されている。(梅森に伝わる『邑事細見禄』及び『尾張誌』などによる。)松平三蔵は深く真宗を信仰し天文戊戌(つちのえいぬ)7年(西暦1538年)三月、三蔵は菩提寺であった天台宗に属する桃延坊をこの地に移し宗を真宗に改め、号(呼び名)を眺景寺とし、次子の高照を剃髪させて、名を道西と改め本寺の住職とした。(眺景寺誌による。)
昭和5五七年二月吉日
Description
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"@type": "StelePhotoSetMetadata",
"Title": "梅森北城跡",
"Creator": "木村智哉",
"CreatedDate": "2025-05-22",
"StoneMaterial": "花崗岩in御影石(黒っぽい)",
"StoneQuality": "ザラザラ、彫ってある部分はツルツル",
"InscriptionText": "\n由緒\n此の城址(城の跡地)は天文癸巳(みずのとみ)二年西暦一五三三年三河の国、碧海郡佐々木の城主松平三蔵はこの地に城を築き居城とした。\nこの城は梅森北城と称され、東西に四十間(25.452m)、南北三十二間(58.176m)と古い記録に記されている。(梅森に伝わる『邑事細見禄』及び『尾張誌』などによる。)\n松平三蔵は深く真宗を信仰し天文戊戌(つちのえいぬ)7年(西暦1538年)三月、三蔵は菩提寺であった天台宗に属する桃延坊をこの地に移し宗を真宗に改め、号(呼び名)を眺景寺とし、次子の高照を剃髪させて、名を道西と改め本寺の住職とした。(眺景寺誌による。)\n昭和5五七年二月吉日",
"ErectedDate": "1982-02-22",
"SteleCreator": "城址碑建立役員",
"Other": "碑身(文章は碑陰)台石の構成",
"LocationName": "眺景寺",
"Latitude": "35°07‘58.8\"",
"Longitude": "137°00‘57.2\"",
"ReferenceURL": "https://www.his-trip.info/siseki/entry1452.html",
"Stakeholders": "",
"InterviewContent": "考\n1540年、安祥城合戦が起こった際には松平一族が内部分裂しこの時、佐々木松平家が織田方につき本家と敵対した。当主である松平忠倫(梅森北城跡、三蔵の兄)が松平広忠に暗殺されると、三蔵は領地を捨てて駿河国の今川氏を頼り逃亡、この時に梅森北城は廃城になったのでないかと考えられる。\n梅森北城跡の近くには梅森東城跡があるが、実際の位置はわかっていない。\n日進市には丹羽氏が関係する城が多い中で松平家で建てているのはめずらしい。\n資料を破った犯人は石碑を建てた人説を考える。\n眺景寺は北城の跡地だが、東城は宝珠寺か東名古屋病院のどちらかとされているが、私は病院側にあったのではないかと考えている。少し台の上のような地形となっているので城を建てる理由としては十分だと思います。一方宝珠寺のほうでは天白川が近くに流れているので物流の点においては拠点にするには良さそうです。ただ城においては攻められるポイントになりそうなのでもう少し陸地に建てる方が賢明なのではないかと思います。ただこの場合は北城に対してさらに北に位置してしまうため、宝珠寺の方が東城として正しいと感じてしまいますな。",
"EnvironmentDescription": "日進市の住宅街の中、眺景寺の境内の前くらいに位置している。\n",
"Persistence": "半永久的",
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